Standing in the Yard

演劇、戯曲の感想、小ネタなど

(Not) to Cross the Line(桐山知也演出『ポルノグラフィ』)

「…番線に電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」

小学生の時電車通学をしていた私は、このアナウンスの「内側」がどちらかわからなかった。駅によっては、ホームの真ん中に電車が通り、その両側に乗客通路があるものもある。その時、「内側」とは線路側を指すのではないのかと思ったのだ。

「白線(当時は黄色い線ではなく白線だった)の内側に」と言われた私は混乱しながら一歩踏み出した。途端に隣にいた大人に「危ない!」と力強く引き戻された(その後すごく叱られた)。

線を越えると危ないことはわかっていた。だが「内側へ」と言われ、どちら側にいるのが正しいのかわからなくなり、跨いでしまった。一瞬の、簡単な一歩だった。

 

サイモン・スティーブンス作『ポルノグラフィ』は、2005年に起きたロンドン同時多発テロを題材にしたオムニバス作品である。とはいえ、直接的な関係者は一人(自爆テロの実行犯であることが示唆される)だけで、それ以外の人物は事件とは無関係である。

ただ、彼らはそれぞれ異なる「一線」を越えるか否かの瀬戸際で揺らいでいる。極秘プロジェクトの情報の横流し、教師へのストーカー的行為、兄妹(あるいは姉弟)間の近親相姦、元教え子への肉体関係の強要。冒頭のシーンで「黄色い線の内側」にいることの重要性が言われ、彼らの「一線」が自爆テロの実行と並列的に提示されるのだが、その内の数人はその線を越えてしまう。「地獄のようなイメージ。彼らは黙っている」というト書きは、主に越えてしまったエピソードの後に言われる。線を越えるたった一歩が、その沈黙を引き起こすのだ。

 

筆者は本作を以前に読んだことがあったが、上演に際し懸念していたのは、日本の観客に前提知識がどの程度必要かという点であった。ロンドン同時多発テロを扱う本作では地名が頻出する。事件について詳しい人ならば、登場人物が何気なく言及した場所が、正にそのテロの現場のすぐそばであることを意識するだろう。だが、そうでない人にはどう受け取られるだろうか。

実際には、当日パンフレットには明快な解説と地図が付されていたし、恐らく俳優の台詞の立て方もあり、その場所や日時が関係すると察するに十分であった。なにより、実は本作の初演はイギリスではなくドイツである。スティーブンスは最初から、ロンドンの地理に明るくない人に向けて書いている。(改めての)予習がなくとも、理解に苦しんだりもどかしい思いをすることはなかった。

 

桐山知也による演出では、シーンを重ねるごとに舞台を横切る非常線が増え、「一線」を非常にシャープに描いていた。客席と舞台の間にいかにもホームにあるような「黄色い線」が引かれていたが、果たして「内側」はどちらだろうか。

俳優の動きについてのト書きがほとんどなく、登場人物による叙事的な「語り(narration)」で構成されるシーンもある本戯曲は、リーディングに向いていると言えるだろう。俳優の「語り」ないし会話は、その場の情景を想像の中に見事に立ち上がらせていた。

リーディングとはいえ俳優は登場人物の生活を鮮明に立ち上げていたため、52人の犠牲者について書かれた短い文章がスライドで次々に映し出されるシーンは観客の心理に迫るものがあった。それらが実際の犠牲者の事実に基づいているのかあるいはフィクションかはわからないとしても、そこで示される取るに足らない事柄が観客の日常と重なり、犠牲者のあり得たはずの現在が想起される。

作品の最後で劇場のカーテンが上がり、外が見えるようにした演出は、恐らく作中で描かれる劇中世界と観客の現実世界を繋ぐ試みだったと推測されるが、いかんせんKAATの中ホールはかなり高い位置にあるために窓の外には隣のビルしか見えず、効果がいまひとつだったのが悔やまれる。

 

「一線を越える」というのは概してネガティブなものに対して用いられる表現だが、スティーブンスは破滅へ向かうものだけを「一線を越える」行動としては提示していない。

本公演での最後のシーン(※)では、テロのせいで長距離を歩かざるを得なかった老婆のエピソードが語られる。人嫌いな彼女は夫の死以降、人との交流を避けて生きてきたが、その日、BBQの匂いに引き寄せられて見ず知らずの人の門扉を叩く。突然、そのBBQの肉を少しくれという彼女に戸惑いながらも、その家の主人は肉を分けてやる(余談だが、公演では実際に老婆が感じたのと同じタイミングでチキンを焼く匂いがした。香りの演出は何度か体験しているが、短くとも本公演が一番良かったように思う)(筆者の妄想でないことを祈る)。

この老婆もまた一線を越えている。だがそれはポジティブな方にだ。長い間引きこもっていた彼女は、一線を越えることで人の温もりに触れた。

「内側」に留まらず、一線を越えることで得られるものもある。失うものもある。その一歩はあまりに容易いが、変化は大きい。私たちは内側にいるだろうか(そもそも内側とは何か)。スティーブンスの「一線」を巡る問いかけに煩悶しつつ、みなとみらい線の「黄色い線」をみつめた。

 

※当該シーンはテキストでは最後から2番目のシーンである。公演でも、テキストの作者注にある「本作品のシーンはどの順で上演されても良い」という文言はスクリーンに映されていた。しかし実は、テキストではシーンに番号が、7から1に向かってまるで爆弾のカウントダウンのように逆順に振られている。

 

(2021年4月16日18時の回)