Standing in the Yard

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ミニマリスティックな美術に俳優の演技が惹き立てられる『マクベス』(ジョエル・コーエン監督『マクベス』)

 ジョエル・コーエン監督の『マクベス』は、場所や時代の設定を可能な限り削ぎ落とし、かつ白黒で撮ることで、観客の視線を俳優の演技に集中させている。この手法は多少は効果的ではあったが、ややスタイリッシュに過ぎると言わざるを得ない。

 ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇と呼ばれるものに含まれる本作のあらすじはいちいち説明しないが、まず舞台はスコットランド、11世紀に実在したマクベス王をモデルにしている。「ダンシネーン」「バーナムの森」を筆頭に具体的な実際の地名が台詞に出てくるし、実はマクベスの当初の城はインヴァネスであり、それから王座を得た後にフォレスの城に移っている。

 つまり、実際のスコットランドの土地が設定されているのだが、コーエン監督作品はその設定を活かしていない。かろうじて11世紀的な衣装と道具は身に着けているが、場所についてはほとんど匿名的である(全てをセット内で撮っているのではないかと思えるほど)。

 城は彼らの衣装と同様に装飾のほとんどない極めてミニマリスティックな造りで、その高低差と白黒の撮影による光と陰影の差が際立っている。また、太陽光がそれとわからない(全シーンをセット内で撮っていたと言われても驚かない)ことが、眠れなくなったマクベスマクベス夫人が「明けと日暮れの区別が付かない」と言った台詞を象徴していた。

 

 潔癖なまでのこだわりを感じるこれらの演出は、俳優の演技にフォーカスが当てられるためにあると考えられる。実際、俳優の演技は素晴らしかった。

 デンゼル・ワシントンが演じるマクベスは、前半では寡黙ながら信頼の置ける人物だったのが、後半では神経質な暴君へと変貌しており、その変化に説得力があった。

 フランシス・マクドーマンドマクベス夫人は(しばしばマクベス夫人の典型として描かれがちな)あからさまな苛烈さこそないものの、内にある頑強な決意と野心が見えている。他方で、この芯の強そうなマクベス夫人が夢遊病になったりするだろうか…と思ったりもしたが(だが、夢遊病のシーンは過度に病気っぽさを主張しておらず、むしろ自然であったがゆえに恐かった)。

 なんと言っても最大の見所はキャサリン・ハンターの魔女である。男と女の間(老人役も務めている)、人と人ならざるものの間の存在として、凄まじい存在感を発しており、魔女の行う魔術にリアリティがある。

 

 あとは原作ではあまり目立たないロス(アレックス・ハッセル)に多くの変更があり、得体の知れない不気味さを醸していた。特に、マクベス夫人は原作では舞台裏で病死し、その報告だけがなされるのだが、本作では階段上に精神を病み茫然と立つ夫人に、ロスが下から近付いていくというカットが入っている。その後、階段下で死んでいる夫人を(実際に見ているのか見えていないのかよくわからないが)マクベスが嘆く。これにより、まるでロスが手を下したかのような印象を受ける。また、原作ではバンクォーを襲撃する暗殺者は三人だが、本作ではその内一人はロスであるという設定に変更され、実はバンクォーの息子をロスが逃したというシーンも加えられている。

 マクベスに忠実な家臣であるように見せながら、裏で暗躍するロスは、裏切りが中心テーマとなっている本作の中核を担う重要人物になっていた。

 

 このように、本作ではミニマリスティックな美術が俳優の演技を際立たせており、ストーリーがとても追いやすくなっていた。他方で、とても既視感があったことは確かである。それはローレンス・オリヴィエの『ハムレット』である。白黒であることでより似た印象を受けたのかもしれないが、オリヴィエの『ハムレット』も比較的抑えた美術の城内と照明が描く陰影が象徴的であり、それによる俳優の演技が際立っていた。ひょっとしたら何らかのオマージュであったのかもしれない。

 

 コーエンの『マクベス』は映像として美しく、ストーリーも追いやすい、かつ俳優が良いという、シェイクスピア作品の初心者にも割と薦められるものになっていたと言えるだろう。だが、ややスタイリッシュに過ぎてしまい、ロシア構成主義を連想させる美術の意図とその効果がいかほどであったかはわからない。このことから、かなり好みが分かれると推測されるだろう。

 

 蛇足だが、筆者はこれまで10回以上(20回?)『マクベス』を観ているがあまり面白いと思ったことがない。それでもコーエン『マクベス』を飽きることなく観ることができたので(ツッコミどころは多いが)比較的満足である。なんならキャサリン・ハンターを見るためにもう一度観たい。