Standing in the Yard

演劇、戯曲の感想、小ネタなど

シアター風姿花伝『おやすみ、お母さん』評

 『おやすみ、お母さん』はシアター風姿花伝プロデュースVol. 9として企画され、発表された時点から興味を惹かれた。というのも、母と娘の2人芝居を、実際の母娘である那須佐代子と那須凛が演じるというのだ。しかも、那須佐代子こそがそのプロデューサーである。とんでもない企画をするプロデューサー/母親だと思いながら、その秀逸なセンスとチャレンジ精神に脱帽した。

 

 物語はアメリカの小さな家のキッチン兼リビングで展開される。娘ジェシーは離婚し、老いた母セルマと2人で暮らしている。その日、身辺整理をしながら銃を探すジェシーにセルマが理由を尋ねると、実は自殺をする予定であることが明かされる。最初は実行しないだろうと思っていたセルマだが、次第にそれが本気であることがわかる。セルマはジェシーを思いとどまらせようとしながら、ジェシーは身辺整理と家事の説明をしながら、2人は亡くなったセルマの夫(ジェシーの父)について、ジェシーてんかんについて、人生について話をする。そして変えられない結末へ向かっていく。

 

 このような重いテーマが冒頭から明らかにされ、約100分の上演中ほぼずっと、セルマとジェシー両者の必死の思いが舞台上に鳴り渡っていた。

 那須佐代子が演じるセルマは、最初の内は軽くいなすような態度で娘の話に付き合っているが、徐々にジェシーの言葉を信じ始め、最後の方には娘の考えを理解し、しかし引き止めたくもあり、その間で必死で抵抗しながら引き裂かれる。その感情のクレッシェンドと葛藤の演技が見事だった。

 他方で、那須凛が演じるジェシーは冒頭から最後までずっと、極度の緊張・興奮状態にあるように見え、これは筆者にはやや意外であった。というのも、死に向かっているとはいえ、それは彼女が計画したことだからである。

 作中ではジェシーは自らについて「何一つ上手くできない」と考えており、それゆえに今回の決断に向かう行動もメモを作って(そのメモを始終チェックしている)計画的に行っている。作品で描かれる部分は最後の2時間弱に当たり、残っている「やることリスト」も最終準備(大量のタオルと新聞紙を部屋に持って行き、銃を探して発砲できるようにする)が終わればあとはほとんど取るに足らないことだ。セルマのキャンディーを詰める、ハチミツを足す、ソファカバーを替える等。最後にこのように瑣末な家事が行われるのは、恐らくジェシーが時間が余ったらやろうと計画していたからだろう。

 実際に、彼女は驚くほど緻密に計画を練っている。自分が死んだ後の葬儀で母が言うべきことまで指示するのだ。計画通りに事が運ばれているのならば、彼女はそのことに満足こそすれ、緊張したり興奮したりするとは考え難い。

 したがって、今回のジェシーは筆者の解釈とはやや異なっていたと言わざるを得ない。そのように興奮状態にあるジェシーにセルマが理解を示すとは考え難いし、まず観客として見ていて説得されなかったのが残念だった。

 

 その他にも、舞台装置が現代日本的であったことも筆者には疑問だった。戯曲の設定は手元に戯曲がないので確認しようがないが、発表されたのは1982年である。だが今回の上演では、キッチンの造り(冷蔵庫以外)はいかにも日本的であり、テレビは薄型な上に電話もボタン式である。演出の小川絵梨子はアメリカ留学経験があるので、この舞台装置は意図的だろう。アフタートークで小田島恒志は、現代日本の家具にしてあることで俳優の動きが自然に馴染んでおり、それが没入を促す、という意図の発言をしていたが、筆者はむしろ終始違和感を感じ続けた。

 なぜ現代日本的な舞台装置にしたのだろうか。仮に観客の共感度を高めようという意図であれば、それは不必要な心配だろう。というのも、戯曲において固有性は可能な限り排除されているからである(確かにてんかんという病気はレアケースと言えるだろうが、作中で発作は起きておらず、加えてジェシーの人生がそのせいで上手くいかなかったかというと、それが第一かつ最重要な理由だったわけではないらしい。つまり、てんかんは観客の共感を妨げるほどの要素ではないと言える)。その他に、作中にアメリカという舞台やその他の個別的な設定を強く意識させる要素や発言はあまり目立たず、どちらかというと老いた母とそれをサポートする娘の、いつの時代のどこにでもあるようなやり取りが多い。本作はピューリッツァー賞を受賞しており、つまり「アメリカの作家によってアメリカが描かれている」と評価されたのだが、無学な筆者にはどの辺りがアメリカ的なのかがわからないくらいに普遍的である。

 

 母と娘の関係性というテーマは(たとえそれが自殺を巡るものであっても)多くの場合に普遍的であり、本作中でも見られるいわゆる「家族内の秘密」が明らかにされるという展開も多く見られる。では本作のどこが特徴的かというと、それが展開されるのが母娘間の苛烈な対立ではないという点である。

 数多ある作品において子どもの自立は親との激しい衝突を生み出すものとして描かれがちであろう、特に母娘となると粘着質であったり確執的であったりすることが多いように思う(極端な例を出すと、同じくシアター風姿花伝で上演されたマーティン・マクドナーの『The Beauty Queen of Leenane』は親子喧嘩どころでは済まない。ちなみにこの作品にも那須佐代子は出演していた)。だが、本作はその点において比較的穏やかである。

 セルマはジェシーの自殺という決意に当然抵抗するが、それでも日々の細々とした家事を指示するジェシーに同意したり茶々を入れたりし、その場の空気はトゲのあるものではない。最後にココアとキャラメルアップルを作って欲しいというジェシーの頼みを断らず、(結局キャラメルアップルは作らないが)ココアを「美味しくない」と言いながら2人で飲んでいる。このような描写が濃やかだから一層のこと最後が切ない。

 セルマがそのように徐々にジェシーの決意を受け入れるのは、彼女の語る自殺が絶望だからではない。ジェシーの自殺は、自立と希望の行為として語られる。「何も達成できない自分でも達成できる何か」として目指される自殺は、彼女にとって最後の希望であり、だからこそ手放すことができないものだ。セルマがそれを受け入れざるを得ないのは、そのことを理解し親離れ/子離れするためである*1

 ずっと「ママ(Mama)」と呼んでいたセルマだが、ジェシーは最後の言葉として「おやすみ、お母さん(Mother)」と呼ぶ。「お母さん」という、温かみと寂寞さが入り混じる言葉をジェシーが発する時、それは彼女の希望と絶望、達成への高揚と人生への諦めを同時に意味する。那須凛の「お母さん」という呼びかけはさらりと耳心地よく流れ、ジェシーが既にセルマの手を離れたことを感じさせた。

 ジェシーは母に、銃声がしたら電話をかけ、警察と兄が到着するまではココアを作った鍋を洗っていてと言う。セルマは「そんなことしないで座っている」と言っていたが、実際に銃声がし、崩れ落ちた後に、ゆっくりとキッチンの流しにあった鍋を掴み、それを抱えたまま電話をかける。一度は娘の言ったことを拒否しながら、しかし実際にはそれに従って行動するという、母の描かれ方のなんと緻密なことか。鍋を抱えた那須佐代子の表情が忘れられない。

 

 以上のように、本作品は母娘の関係性や自殺というテーマを取り上げながら、その描き方としては特殊だったと言えるだろう。その濃やかさには驚嘆し、俳優に大きな挑戦を突きつけるものである。その挑戦に乗った那須親子の胆力がうかがえる作品である。

 

 

*1:なお、本公演の制作はもちろん、筆者も自殺を美化あるいは奨励するつもりは一切ないことは念のため示しておく。