Standing in the Yard

演劇、戯曲の感想、小ネタなど

娯楽としての芸術を目指す(G. Garage///『リチャード三世』)

 G. Garage///『リチャード三世』は元々大変楽しみにしていた公演だ。『リチャード三世』という作品が好きであり、また主催・主演の河内大和のファンというだけではなく、「シェイクスピアをちゃんとやる」という劇団のコンセプトが直球で良い。結果、「ちゃんと」かどうかは措いておくとしてもシェイクスピア作品を娯楽として、かつ芸術として上演するという信念が強く伝わる公演であった。

 

 娯楽として楽しめるよう工夫された演出は各所に伺える。そもそも俳優たちが親しみの持ちやすい魅力と個性を持っている。主演の河内大和は非常にインパクトの強い存在感を持っているが、周辺の俳優陣もそれに負けない癖の強さがある。ややくどく感じられる部分もあるが、俳優の愛嬌で乗り越えられていたと言えるだろう。

 

 他方で、俳優の個性ばかりがかなり目立ち、作品自体に個性があったかどうかは疑問である。というのも、特にカクシンハンの『リチャード三世』と似ているのである。黒い革のパンツに上半身はほぼ裸のリチャード、後半に床に敷かれる布はカクシンハンの時の背景と同じ白である。俳優達のテンションの高さ、台詞のテンポ、笑いを誘うために入れてくる小ネタの傾向などもほとんど印象が同じである。

 已を得ない部分もあるだろう。そもそも題材が紅白の薔薇をモチーフにする薔薇戦争である以上、イメージカラーは固定される。なにより主演を含む複数の俳優がカクシンハンにも出演しており、河内大和はカクシンハンの演出にもかかわっている。そもそものコンセプトも、カクシンハンが作品でやっていることとそう離れてはいない。すなわち、両者共にシェイクスピアという古典作品の現代における上演になんらかの「新しさ」を追求しつつも、ラディカルな変更を加えることなく、ミニマルでスタイリッシュな美術を用いて公演を作っている。となれば、似てくるのは仕方がない。

 

 では、カクシンハンとは異なる点においてオリジナリティが認められるかというと、今ひとつ作品の核を担うまでにならなかったのではと言わざるを得ない。

 例えば音楽はドラムとサックスの生演奏であり、登場人物がキューを出したりするので、彼らもまた劇中人物のように見えはするが、物語には関わって来ない。音楽は素晴らしく胸に響いて来るが、それ以上の演出がなかったのがもったいなく感じられた。

 また、最も理解できなかったもののひとつに冒頭に加えられた断片的なシーンがある。舞台の机の上で、リチャードが黒い影のような存在に呪いをかけられている(?)ようなシーンが、暗転→ピンスポ→暗転というカットで何度か繰り返されるのだ。しかし、これがどこかに連結されることはなく、そのまま終わってしまう。

 その他、アンが前夫の遺体を担いで来る際に、拡声器を使って市中の人々に主張を聞かせているという演出にしていたり、リチャードを大道具扱いしたり(休憩前にリチャードの全ての動きがストップし、スタッフによって撤去され、再開時にまたスタッフが設置する)、チラシにも用いられている大型動物の頭部の骨格がリッチモンド軍を代表していたり…と様々な試みは見られるものの、それがひとつにまとまることがなく、「面白い工夫」にとどまってしまっていた。

 

 色々書いたが、確かに娯楽性は高く、楽しめる作品になっていた。ただ、シェイクスピアの『リチャード三世』は元々そのままでもかなり娯楽性が高い。アンチヒーローを主人公としたピカレスクであり、歴史劇の中でもわかりやすい方で、現代の観客にも人気が高い。色々付け加えずに、本来のコンセプトに書いてあったように「ちゃんと」やっても(むしろその方が)純粋に楽しめたのではないかと思う。

 ひょっとしたら、G. Garage///のような俳優の布陣と演出ならば、現代では理解するのが難しくやや不人気と言われる作品の方が適しているかもしれない。その可能性が垣間見えた作品だった。